isoshux’s diary

偽善者のあがきです

自己紹介

初めまして。isoshuと申します。
ブログも完全初心者です。

自己紹介替わりに、偽善者である僕の『偽善論』をまとめてみました。

こんな、少しひねくれた自分の、日頃の出来事やニュースに感じたことを週一目標で書いていきたいと思います。




ー偽善とはー

 偽善とは、読んで字のごとく偽りの善、つまり、上辺だけの善行のことです。本心では思っていなくても、人に、世間に良く思われたくて、表向きの行為を繕うことです。また、その偽の善行に対して見返りを期待することであり、一般的には良い意味で使われる言葉ではありません。
 「あなたのやっていることは偽善だ」とか「あなたは所詮、偽善者だ」などと、他人から指摘されたり、時には罵られたりすれば、自分では良かれと思って行ったことであっても、不安になってしまい、その行為を止めてしまったりします。
 では、自分のとった行動が完全なる真の善を持った行為でなければ、偽善となってしまうのでしょうか。
 例えば、電車などで高齢の方に席を譲った際、「なにいい人ぶってるんだ」「この前は、お年寄りが前に立っていても、寝ていただろ」等と周りの人が受け取ったり、自然災害の被災者に募金をして、それをSNSにあげたりすれば、「いいねが欲しいだけだろう」等と叩いたりする人は少なからずいます。
 何れにしても、奉仕の精神に則った行動であったとしても、完全なる無欲の行動であったとは、言い切れないかもしれません。自分であれば、前者の場合、良く思われたいというよりは、悪く見られたくないという思いの方が強くなりますし、後者の場合、「いいことしましたよ」というアピールがゼロであるとは言い切れません。
 只、このようなことを以てして、善行とみなさないのであれば、ほとんどの行為が偽善になってしまいます。多少の下心があったとしても「何もやらないよりは、やって少しでも他人のために役に立てれば」と思慮した行動であったとしても、それは『偽善』なのでしょうか。
 本来、「それらは偽善ではありません」と反論していくところですが、「偽善だけど、それでいいんじゃないでしょうか」ということをこれから述べていきたいと思います。

性善説性悪説

 「偽善でいいんじゃないか」という、理屈(屁理屈かもしれません)を述べるにあたって、『性善説性悪説』について、少し説明させていただきます。
 性善説とは、「人は本来、善であり、努力次第で立派になり得る」という、紀元前4世紀頃に、中国の思想家<孟子>によって説かれた思想です。ここでいう善とは「道徳的に正しいこと」という意味であり、人は元来、善ではあっても、努力をしなければ立派にはなれないと唱えています。
 対して、性悪説とは、「人の本性は悪であり、努力することによって善を獲得できる」という、紀元前3世紀頃に、中国の思想家<荀子>が性善説に対する言葉として、説かれた思想です。ここでいう悪とは「意思の弱さにより、欲望に囚われてしまう存在」という意味であり、人は、努力をすることによって善を手に入れることができると唱えています。
いずれの思想も、人は正しい道徳を得るためには、努力することが必要であると説いています。     
 これらの二人が説いた思想は、ある意味、人間の根元にある道徳観であるため、それぞれの時代で、地域で、宗教で、環境で、そして個人個人で、様々な捉え方をされ、使われ方をされてきました。そして、人は、「性善なのか性悪なのか」という、終わることの無い議論が、今も昔もなされています。

ー偽善と性悪説

 「では、あなたの考えは。」と問われれば、圧倒的に性悪説を支持します。
 只、自分の『悪』への解釈として、荀子の云う「意思の弱さにより、欲望に囚われてしまう存在」でも、法で使う「故意」の意味や、憎悪とか支配欲のようなこととも違います。
 『悪』=《楽をしたい、さぼりたい、怠けたい》なのではないか、要するに人は「なるべく苦労しないで、楽して生きていきたい」という性分の生き物だということです。
 ここでいう、「楽をしたい」というのは、「安定した状態をより好む」という意味です。
 位置エネルギー的にいうと、低くて平らな場所に居る状態です。高い位置に居続けようとすれば、自らがエネルギーを放出し続けなければならない、つまり、高いレベルの暮らしを続けるには、それ相当の努力をし続けなければいけません。しかも、高い位置に居れば居るほど、一瞬の怠りで、大きく落下してしまいます。
 只、それなりの暮らしの中では、それなりの努力で保つことができ、多少怠っても、大きな変化は生まれません。この様な、抑揚の少ない生き方の方が楽なため、そちらに吸い寄せられるのが人の性なのではと考えるわけです。
 では、人がそんな性分であるなら、何故、地球上の生物のなかで、一番進化することができたのかという疑問が生じますが、それも「楽をしたい」が、そうさせたのではと思います。
 例として、移動手段で考えてみます。
 当然ながら、最初は自らの脚を使って移動するしかなかった訳で、他の動物においても、現在に至るまで自身の体を使うしか移動手段はありません。(十二支の話では、鼠が牛に乗っていますが)しかし、人間は様々な移動手段を手に入れています。
 狩猟民族であれ、農耕民族であれ、より遠く、より早く移動できれば、生活の上でも、生き残っていく上でも有利であったことは間違いなく、それをなし得る他の動物の能力を羨んでいたことは想像に難くありません。そこで、人はその能力を身に付けることは無理であっても、それを利用することはできると考えたのでしょう。 
 ”あの動物に乗れれば楽に移動できる”ある程度、人に懐き、手懐けやすく人を乗せられるだけの体格があるという条件に合致したのが、馬であり、彼等は移動の手段だけではなく、農作業等でも利用されることとなります。
 馬を手懐け、調教をし、飼育もして人の生活のなかで思いどおりに利用できるように、多大な知恵と労力(エネルギー)を注ぎ、そのシステムを確立させ、遥かに高いレベル(位置エネルギー)の生活を安定して、楽して送ることができたのです。
 その後も、地上の移動手段という点では、誰もが手軽に移動できる手段として自転車ができ、機械工業の発達により内燃機関が生み出され、バイクや自動車が編み出され現在に至ります。
 水上においても、そして人類が誕生した時からの念願であったといっても過言ではない、空の上においても、我々は移動手段を手にすることができました。
 それもこれも、より「楽をしたい」という『悪』が、原動力となっているのです。その『悪』が根源である以上、人の善行は、やはり、真からの『善』とは言えなくなってしまいます。
 では、性悪である人が、なぜ、善行を寧ろ好むのでしょうか。
 それは、”憧れ欲”ではないでしょうか。性悪だからこそ、自分にない『善き考動』に羨望し、そうなりたいと欲するのです。そして、この”憧れ欲”が荀子の云う、努力にあたるものであり、それが人を善行に向かわせているのです。
性善説においても、努力をしなければ良き道徳を得られないとしています。それは、努力をしなければ人は怠けてしまう、つまり人は元来怠けてしまう生き物だということの裏返しではないでしょうか。 
 ボランティア活動に参加したり、募金をしたり、弱い立場の人達に手を差し伸べたりすることで、人の役に立ちたいという思いと同時に、そこには怠惰な自分を少しでも引き上げたいという欲望もあるのだと思います。

ー大事なのは認識することー

 さきに、”憧れ欲”といったものは、世間的には『キレイごと』と一蹴されてしまうものです。
 しかし、人はその『キレイごと』に向かっていかないと『悪』に吸い寄せられてしまう、0の位置から10に憧れることで、5に居られるのだと思います。
 そして、何よりも大事なことは、『キレイごと』だけど、欲のある真の善行でないのは分かっているけれど、それでも何か役に立てる為に、少しでも理想の形に近づける為に思慮した行動であるが、それは不完全であると認識することです。
 例えば、交通事故や自然災害による遺児を助けるために、少しでも役に立てればと募金をしたり、ボランティア活動することで、その遺児達の手助けにはなります。しかし、世界中には、もっと大変な状況、例えば貧困や戦火にさらされている子供達はごまんと居る訳で、ではその子達には手を差し伸べないのかと考えた時に、自分にはそこまでできないし、そこまで考えられないというのが多数だと思います。
 このようなことを指して、「キレイごとだ」「偽善だ」と言われたりしますが、たしかにそうかもしれないけど、今、自分ができることは何かを考えて、まだ足りない部分はある、問題点もあるかもしれないけどということを認識して行動することが重要なのです。
 自分の行う善は、信念に基づいての行動であり、今までもこのやり方でやってきたし、何も問題はないんだ、という考えは、偏った思考になりがちであり、また、修正も効きません。そして、時には大きな危険を伴います。
 極端な例でいうと、オウム真理教ナチスドイツ等がそうですが、松本にしてもヒトラーにしても彼等は、悪いことしているという意識はまるでなかったわけです。それは、彼等の思想は、自身のなかで完全であり、それに反するものは悪であり排除する必要がある、それ故に、大量殺人行為は善であるとなってしまうのです。
 上記の例は極端にしても、正しい道を進むためには『無知の知』が大切であり、自分の行動や考えには、まだ欠落している部分があり努力が必要だと認識して、いつでも修正できる人の方が、それをできないで完全だと考えている人より優っているのです。
 だから、『偽善』『キレイごと』でいいのです。足りないことを自覚して、認識して、常により良いものを求めていけばいいのです。

ー所詮、偽善者ー
 
 ここまで述べてきておきながら、僕自身は『偽善』や『キレイごと』でいいじゃないですかと、他人に薦めるつもりも、説き伏せるつもりもありません。何故なら、社会の中で、この様なことばかりを言っていると、「考えが甘い」とか「現実が分かっていない」と突き放され、相手にされなくなってししまうからです。それでも『キレイごと』を貫くことは、ドラマやアニメの中ではヒーローになれても、実社会では厳しい茨の道を歩くことになりかねません。
 だからといって、結局は社会の波に呑まれて生きていくということではなく、皆様におかれましては、長いものに巻かれつつ、その中で、常に『キレイごと』を見失わないように歩んでいただきたいと願っています。
 無責任な結論になってしまいましたが、お許しいただきたい。さもいう自分自身も、常に『キレイごと』に羨望していないと堕落してしまう、所詮、性悪の偽善者ですから。

                   終